F思考

心理学科卒の社会人。読書を通じて、考えたことをブログに蓄積。

悲観主義を楽観主義に変える

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まず、筆者は楽観主義者だ。

だが、それは結果的に楽観主義なだけであり、本質的には極度の悲観主義者である。

この倒錯した主義を説明する。


この記事は、「自分は物事を悪くしか考えられない」という人には、助けになるかもしれない。

悲観主義とは何か。

悲観とは一般的に、「こうすると失敗する、何をやっても失敗する」と言った、事態を暗く後ろ向きに考えること。

極度の悲観とは何か。

筆者が考えるに、極度の 後ろ向きは「死」に関する部分である。

最悪死にはしない、とよく言う様に、最悪は死である。

そして宗教が介在しない限り、現代の科学的には死後は無である。

事態を最大限後ろ向きに考えて行った結果、その最悪の死に至り、無になるというのが極度の悲観である。

何かに失敗して死→無に至る、というのが極度の悲観。

それを主義とするならば、何をしても死ぬ・無になる、を最悪の線引きとして生きていく事だ。

つまり「何をしても結局死んで無になる」が極度の悲観主義

極度の悲観主義である人。

しかし自らの死を求めている訳では無い。

ならばその無に向かってどうするか。

悲観主義から楽観主義への変換

無に向かって生きていく、それならば何をしても良いじゃないか、というのが筆者の考えである。

何をしても良い、そう考える事で選択肢は無限に広がる。

例えば会社員。

日々働いている会社での失敗で1番酷いのは、クビになることだろう。

無収入になる、生活保護を受ける、やりがいもなくただ生きて死ぬ。

これが最低ライン。

しかしそれすらも無に対しては意味を持たない。

どうせ無になるならやりたい様にやろう。

これが筆者の考える極度の悲観主義は楽観主義の内容である。

こうして理解して作られた楽観主義は強い。

悲観主義では、やりたい様をやる事での周囲の視線が気になるだろう。

しかし極度の悲観では、周りの目など問題にならない、何故なら最悪の死からは到底離れているから。

ひとつひとつの物事を自分の中で消化し、死に対しての物事としてしまうのである。

全てを些細な事として自らを納得させる。

全てが些細な事だと考え、行動できる。

この人間はいわゆる楽観主義者以外の何者でもないだろう。

悲観主義も煮詰めて考えていけば楽観主義になり得る。

「私は悲観主義だから」と行動出来ない人間。

「私は極度の悲観主義だから、逆に楽観主義」と行動出来る人間。

筆者は後者を選んだ。

今の自分が好きな悲観主義は結構。

自らを好きになれない人にはオススメの精神論を、垂れ流し的文章とさせてもらった。

要は考え方次第で主義は変わる、というお話。